国境越え

 島国日本に住んでいる私にとって、国境通過というのはなかなか興味深いものだった。 国境のラインを越えた途端に、人、言葉、通貨などがガラリと変わるというのは、ワクワクするものだ。
 しかし、体ひとつで旅をするバックパッカーなら、国境通過もそれほど問題ないのだが、オートバイ旅行者にとって厄介なのはオートバイの通関だ。
 カルネという税関のフリー切符のようなものがあれば苦労はないが、それがないと大変だ。
 南米のコロンビアでは、カルネを持っていなかったために、オートバイの通関が切れなかった。

 2回目のツーリングでは、アメリカでオートバイを買ったのだが、アメリカではカルネを取得することができなかった。そもそも、カルネそのものが存在しなかったのだ。当時(1990年)南米では基本的にオートバイの通関にはカルネが必要で、元はといえば持っていない私が悪いのである。
 パナマから飛行機でコロンビアの首都ボゴタの空港に送り、そこで粘ること3週間。結局通関は切れずに、そのままエクアドルの首都キトに再び航空便で送った。
 走れなかったくやしさ、航空便にかかった費用などで力が抜けた。オートバイは航空便で送ったが、私自身はバスを乗り継いでキトに向かう。
 まさかツーリングで旅に出て、バス旅行する羽目になろうとは思わなかった。

盗難

 盗難に遭ったのは3回。そのうち2回がユースホステルのなかで起こった。

盗難Part1
 1回目はアムステルダムのユースで、寝ている間にウエストバッグごと盗まれた。
 40人くらいの大部屋で2段ベッドに上に寝ていた。鍵のかかるロッカーもあったのだが、ロッカーを信用していなかった私は、ウエストバッグをベッドの鉄柱に二重に巻き付けてパチンとロックし、その上に枕を置いて眠っていた。いくらなんでも、枕の下にあるものを盗んでいくヤツはいないだろうと思っていたが……、それがいたのだ。
 メガネ、腕時計、コンパクトカメラ、お守りなどを入れていた。パスポートとお金は、貴重品袋の中に入れて首から吊っていたので助かった。
 アムステルダムの警察というのが実に事務的で、盗まれたと言ったら、用紙をくれて、
「これを書いてサインしろ。保険会社には、この証明書を出せばOK」
 と言って終わりだった。
 しかし、2日後にユースの屋上でウエストバッグが発見された。中身は全部無事。お守り袋の中身まで開けられていた。多分キャッシュだけを狙った泥棒だ。
 見つかって良かったと思った反面、少しプライドも傷ついた。
 私のカメラや時計は、盗む価値さえないのだろうかと。

盗難Part2
 2回目はフランスパリ郊外のユースで。
 そこのユースにはオートバイの整備などで、約1ヶ月滞在した。ユースの住人やそこで働く人たちとも仲良くなり、気が緩んだのがいけなかった。
 ある日、持っていた短波ラジオがなくなった。これはときどきNHKの日本語放送を聞いていた大事なラジオだった。
 その前年の8月にイラクがクェートに侵攻し、戦争が始まるかも知れないといっていた1991年1月のことだ。ニュースを聞き、状況を検討した上でアフリカに渡ろうと思っていた矢先だっただけに、盗難のダメージは大きかった。犯人は泊まりに来てい少年だろうと目星はついたが、証拠がなかった。そして、もちろんラジオは戻ってこなかった。

ユースホステルは危険か?
 危険であるとも言えるし、ないとも言える。
 ただ、大勢の人間が泊まっているので、中には手クセ悪いヤツもいるだろう。
 ヨーロッパの大都市にあるユースは出入りが自由で、まるで関係のない人間が旅行者のフリをしていることも多いという。となるとユースは危険なところということになるのだろうが、他にこんなに安く泊まれるところはない。もっと奮発してもっと宿代の高い、安全そうなホテルに泊まるか、多少の注意を払ってユースに泊まるか、それは旅のスタイルによる。
 ただ、いいホテルに泊まったからといって、盗難と無縁になるわけではない。一歩外に出ればいろんなものが待ち受けている。
 だから、盗難に遭わないコツは、常に注意を払っていること。それ以前に、盗まれて困るようなものは絶対に持っていかないということだ。これしかない。

オートバイの盗難対策
 ツーリングで絶対に盗られてはならないのがオートバイだ。
 オートバイを停めるとき、私は8mmくらいのワイヤーの鍵とU字のスチールの鍵、それにバイクシートを用意していた。さらに、女性用の痴漢撃退用110番ブザー2個を持参した。
 ホテルの外など、わりと物騒なところに停めるときには、まずハンドルロックをかけ、前後輪にワイヤーロックとスチールロックをかける。そしてシートをかけ、さらに110番ブザーのひもをシートの端に結び、ブザー本体はオートバイに両面テープで貼っていた。
 お陰で、オートバイを盗られることはなかったが、ロックの持ち運びが面倒だった。結構かさばるし重いしで、使わないときの役立たずぶりは、ヘルメットといい勝負だ。
 盗難に遭っていないのでこれは憶測にすぎないが、危ないのはむしろ先進国だと思う。
 あまり、オートバイの走っていない地域では、盗難というのは起こりにくいのではないかと思う。私のオートバイは目立ちすぎて、盗むことができなかったのではないだろうか。オートバイというのは、数人で担ぎ上げれば運べてしまうほどの重量だ。もし狙われたら簡単に盗まれるものだ。どんなに鍵を厳重に付けてもムダである。
 それよりも、オートバイを隠すほうが有効だ。宿に泊まったときには、必ず道路から見えないところに置く。できれば建物のなかに入れさせてもらう。宿を選ぶときにもそれを頭にいれて、自分自身のの快適さよりも、オートバイの停め場所を優先させるという気持ちが大切だと思う。

マシントラブル

 基本的に、オートバイは良く走る。
 普通に走っていて事故や転倒をしなければ、あまり深刻なトラブルに見舞われることはないはずだが……。
 海外ツーリング特有のトラブルは、トップギアのギアの磨耗ではないかと思う。信号があまりない国では、ギアチェンジなしで走りっぱなしということも少なくない。
 セローのときには、ヨーロッパをトップギアで走っているときに、「フォーン」というような異音が出始めていた。エンジンを開けてみると、トップギアの表面に、クレーターのような穴ができていた。原因は、多分トップギアの使いすぎと過積載。オイルは日本から持参したMOTUL300Vを使用していたので、現地の粗悪オイルを使った云々の話ではないと思った。
 そこでミッションを交換した。作業は自分でやったのだが、エンジンを開けるのも組むのももちろん初めての経験だった。サービスマニュアルと首っ引きで行ったが、非常に不安だった。オートバイはもう二度と走らないのではないかと思ったが、何とか走ってくれた。
 ところが、エンジンの組み方が悪かったのか、ミッションを交換した後、オイルの消費量がやたらに多くなってしまい、オイル量のシビアなチェックが日課となる。
 北米に渡り、カナダを走っているときのこと。7月の暑い日だった。
 60kmくらいで巡航していると、突然エンジンがスローダウンした。何事かと思い、すぐにオートバイを停めてガソリンや電装系を点検したが、原因がわからない。なにか不吉なものを感じながら、走り始めたが特に問題はない。
「あれは何だったんだろう」と考えながら、首都オタワに向かうハイウェイに乗り、アクセルを開けた途端エンジンが「カチカチ」とものすごい騒音を出し始めた。
「焼き付いた!」
 急いでオートバイを停めてオイルキャップを開けると、焦げ臭いにおいが鼻をついた。顔面蒼白。写真はそのときのピストンだ。 修理工場でピストン交換、シリンダーの研磨をしてもらうが、以後オイルの燃費は、4サイクルにも関わらずリッター1000kmとなった。原因はオイルが減っていたところに、急な気温の上昇でオイル切れになったということらしい。
 また、アラスカハイウェイの途中では、前輪のスポークが1本折れてしまい、そのまま走り続けていると、折れたスポーク付近のホイールにクラックができた。さらに、振動で電装系までおかしくなってしまい、オートバイというものは走行距離が4万kmを過ぎた頃に、いっきにおかしくなるという印象を受けた。
日本のオートバイは1人乗りとして設計されている。小さなエンジンに100kg近い荷物を積んで、長い距離を走るというのは、決してほめられたことではないということを痛感した。
 故障の起きる季節というものある。
 冬場は特に気を付けた方がよい。金属部分が収縮しているせいだと思うのだが、溶接部分が離れたりワイヤーが切れたりすることがある。本当に寒いところでは、オイルが水アメのように固まっている場合もあるから、オイルのチェックはかかせない。
 ちなみにパンクは1回もなかった。

病気

下痢
 海外旅行にいけば病気やケガはつきものだと思っている。
 インドでは大きな下痢に2回やられた。1回目の下痢は、抗生物質を飲むと1日で治ったが、2回目の下痢はイランに入国するまで1ヶ月半も治らなかった。いろいろ薬を飲んでみたが、どれも効かず、思い返して見ればあれは赤痢とかそのたぐいのものだったのかなという気もする。
 といっても深刻な状況というのはそのうちの1週間くらいで、後はオートバイに乗れる程度だったということは、たいしたことはなかったということだろう……か?


風疹
 風疹はパリでもらった。ユースホステルを泊まり歩いていたので、多分ほかの旅行者に移すされたのだと思う。
 突然の高熱が出て3日間動けなかった。そのときはユースホステルが満員で、庭に張らせてらったテントに寝ていたのだが、さすがに惨めな思いだった。熱が下がると顔や手に赤い斑点が出たので、風疹だとわかったが、それ以降は熱も下がったので、結局医者にはかからなかった。


虫歯
 旅行中、唯一かかった医者は、チリ・サンチャゴの歯医者だ。
 日本で治したはずの奥歯が痛み始め、なんとかアスピリンでなどでごまかしていた。ところが、あまりにも痛くなったので、日本から持ってきた抗生物質を試しに飲んでみたところ(素人はこれだから恐い)、痛みが何倍にも増したので、やむなく歯医者に行った。
 言葉のあまりわからないところで医者にかかるというのは不安なもので、スペイン語で症状を説明するのは不可能に近かったが、なんとか応急処置で治してもらった。
 そこでもらった薬は非常によく効いたが、後である日本人にその薬を見せたら、「そんな薬使ってるんですか? 日本では絶対に使わない強い薬ですよ」と言われてしまった。外国の医療システムというのは、わからないだけに、不気味なものだ。


熱帯熱マラリア
 アフリカ・トーゴの海岸にあるキャンプ場にいたときのことだ。
 ある日急に頭が重くなった。足腰の節々も痛い。おかしいなと思って熱を計ると、38度5分もある。気温が高いからか、熱があることをあまり感じなかったのだ。解熱剤を飲むと30分後には熱が下がるが、しばらくするとまた上がる。
 てっきり風邪と思っていたのだが、偶然会った日本人の駐在員にその話すると、
「そりゃ、間違いなくマラリアですね」と言われた。
「3日間熱が出て、次の3日は熱が下がり、それが何回か続く……」
これが典型的なマラリアの症状と聞いていたが、それとは違っていた。まさかと思ったが、聞けばいろいろ種類があるらしく、私のは「熱帯熱マラリア」といって不規則に発熱するものらしい。マラリアの予防薬を飲んでいたにも関わらずマラリアにかかってしまったのだ
 現地で売っているという薬をもらってその場で飲んだ。
「3日後にはよくなりますよ」と言う。
 キャンプ場に戻って、マラリアにかかったいう話を他の旅行者にしたところ、なんとここのキャンプ場にいる人間は、みんなマラリアにかかったことがあるというのだ。
「だったら最初から言ってくれよ。ここはマラリアの蚊がいるキャンプ場だって……」
 次の日、別のキャンプ場に移って養生する。といってもテントのなかで寝ているだけなのだが。
 3日たつとその人が言ったように、本当に熱は下がっていた。

紛争

世界中のあちこちで紛争の種がくすぶっている。
望む、望まないに関わらず、そんな地域を通り抜けなければならないことがある。
旅をするものが何よりも望むのは、主義主張を超越した平和である。

インド・パンジャブ州
 海外では、日本人にはわからないようなことが起こっている。
 私がいたころのインドでは、シーク教徒の過激派が暴れていた。パキスタンとの唯一の陸路であるアムリトサルの町は、シーク教徒の本拠地パンジャブ州にある。当時は外国人がパンジャブ州に入ることが制限されており、特別なパーミッションが必要ということだった。なんとかそれを取得したのだが、オートバイや車は陸軍の護衛付きでないと走れないのだ。そのコンボイが月に3回組まれるという。そこで、指定された日にコンボイの組まれる集合地に行ったのだが、コンボイが現れない。しかたなく、1人でパンジャブ州を走り抜け、アムリトサルに到着。テロに遭遇することはなかったが、実に妙な気分だった。

イラン
 イラクと戦争中。日本ではホルムズ海峡でタンカーが攻撃されたという記事が、新聞紙上を毎日にぎわしていたころだ。町を歩くと軍服姿がやけに目に付き、町のあちこちに避難用のシェルターがあった。
 幸いイラク軍の空襲を受けることはなかったが、トルコに抜けた後、BBCのテレビでミサイル攻撃があったことを知って愕然とした。

パナマ
 ノリエガが逮捕されて数週間後にパナマを訪れた。町のなかは混沌としており、略奪にあった店が開店休業状態のままだった。
 交差点にはアメリカの装甲ジープが必ず停まっていて、睨みを効かしていた。

チュニジア
 湾岸戦争開戦直前、チュニジアの首都チュニスにいた。チュニジアはアラブ国家であり、イスラム圏のヒーローであるサダム・フセインの人気は高い。この町にはPLOの本部があるのだが、同じ通りになんとアメリカ大使館もある。
 西側の最後通告の期限が迫るに連れて、市内は物々しい雰囲気となる。アメリカ大使館、フランス大使館など西側の建物の周りには、軍隊が装甲車を配備して、過激派のテロを警戒していた。
 きな臭い雰囲気を感じてアルジェリアの国境に向かったが、国境の町についた日、西側諸国はイラクへの攻撃を開始した。


付録:カルネとは何か?

 海外ツーリングに興味のある人なら一度は聞いたことがあると思うのが「カルネ」というものだ。
 これはフランス語で「Carnet de Passage por Duane 」一番頭の言葉をとってカルネと読んでいる。直訳すると、「税関での通行切符」というような意味になる。 いいろな本にカルネの説明が書かれているが、どれも今一つわかりにくい。それが必要だということだけはわかるのだが……。

カルネとは、自分のオートバイをその国では売らないという証明書
 通常だと、オートバイをその国に持ち込むと税金を払わなければならない。
 たとえオートバイでその国を通過するだけでも、それは同じだ。旅行をすると称して、その国にオートバイを持ち込み、それを売るのだと見なされる。だから、関税をかけられる。
 税関でいくら得意(?)の英語を駆使して、「旅行が目的でバイクを持ち込むだけで、決して国内では売らないから、税金を免除して」と主張しても、税官吏はまず納得してくれない。 事実そうやって入国して、車やオートバイを売って、商売をしている人間もいるわけだ。
 ところが、カルネを持っていると、オートバイを売らないと税関で信じてくれる。
 「どうしてだろう?」
 それは、カルネを取得するためには、通常数千ドル、数万ドルの保証金を払わなければならないからだ。その保証金を返してもらうためには、オートバイを持って帰らなければならない。その国でオートバイを売ってしまうと、カルネの保証金を受け取ることができないのだ。
 こういうわけで、オートバイを売らないということを信じてもらえるわけだ。その結果、スムーズに税金を払わずに国境を越えられるということになるのだが、これでも、わかりづらいかな……。