
欧州の憂鬱
1987.12〜1988.5

トルコからギリシアに抜けるとそこはもうヨーロッパ。
初めてのヨーロッパと胸は高鳴ったが、アジアを駆け抜けてきた僕にとって、
冬のヨーロッパは寒く、物価は高く、辛さが身に染みる。
こんな場所は速く通り過ぎなければ…。
身体的にも精神的にも参りそうになりながら、僕は旅を続けた。
ギリシア
ギリシアに入ると、当然だが道路標識もギリシア文字となるのだ。「Σ(シグマ)」だ、「Λ(ラムダ)」だ、「θ(シータ)」と、三菱のクルマと数学のオンパレードになるのだが、ミシュランの地図には、アルファベットで載っているだけなので、よくわからない。字のだいたいの感じと方向を照らし合わせて進む。考えてみると、ギリシア時代のギリシアは知っているつもりだったものの、現代のギリシアについてはほとんど何も知識のないことに気づく。海運王オナシスがギリシア人だということくらいか…。 などと思いながら、やっぱり遺跡めぐりをするのであった。写真はオリンピアの競技場。幼稚園の運動場ほどのスペース。オリンピックの聖火はここで点火され、聖火リレーへと引き継がれるのである。
イタリア
オリンピアの近くパトラという港から、フェリーボートでイタリアのアドリア海沿いの町バリに着いた。どうしても元旦にはフランスにいたくて、残念ながらユーゴスラビアは通らなかった。その後内線でツーリングどころではなくなってしまったので、今から考えればもったいない話だ。
ナポリ、ローマ、ピサ、ジェノバと地中海沿岸を走る。イタリアに来れば、そこら中フェラーリが走っていると思ったが、ローマでさえ見かけたのは1台だけ。走っているのはほとんどフィアットで、たまにアルファロメオを見かける程度。あとはベンツやアウディのドイツ車ばかりだ。東京のほうがもっとフェラーリが走っているいるなぁと少しガッカリした。古い石畳の道が多く、雨のときには二輪車は滑りそうで結構怖かったのである。イタリアに来たら、スパゲッティを腹いっぱいと思っていたのだが、アジア経由でたどり着いた僕には、食い物がやたら高く思え、レストランで座って食べるということがほとんどなかった。街中には「BAR(バル)」という軽食堂がたくさんあって、そこでカプチーノを飲みながらパンを立ち食いをするのだ。テーブルに着くと席料がかかり少し高くなるのだ。うまそうなものがいっぱいあるイタリアで食べられないのは辛いが、僕の旅は断じてグルメツアーではなかったのだ。
オーストリア
フランス経由でスイスからオーストリアに入った。1月ヨーロッパは当然だが寒く、走っていて雪が舞うことも珍しくなかった。このあたりは、まさに「アルプスの少女ハイジ」の世界だ。晴れた日には、冠雪した山々の白と真っ青な空が続く道を走る。爽快! だが寒い。 冬季オリンピックの行われたインスブルックでは、ネパールで出会った大学生の自宅に泊めてもらった。インスブルックにも行くよと言ったら、そときはぜひ家に来いと言ってくれたのだった。 旅先で知り合いなって住所を交換することがよくある。日本人の場合、住所を交換するという行為は、「旅が終わったら手紙でもちょうだいね?」くらいのつもりのこと多い。が、国際的には必ずしもそうではない。とくに金のないバックパッカーにとって、住所交換というのは「もし近くに来たら泊めてあげるよ」という意味なのだ。 ある日本人が、帰国後旅先で会った外国人がいきなり訪ねてきて、びっくりしたという。玄関先に立ってニコニコ微笑みながら「僕を覚えてますか? カトマンズであった○○です。昨日日本に着きました」と言う。 「ええ、覚えてますけど、何かご用ですか?」日本人は狼狽を隠せずにそう答える。 その言葉を聞いて、外国人旅行者は愕然とするのだ。右も左もわからない日本に着き、この住所だけを頼りにここまで苦労してやって来たのに、何かご用ですかだって!? 失意のうちにその旅行者は玄関先から去り、ひとり宿を探しあぐねるのである。住所交換にはそれほどの重みがあるのだ。 そんなときはせめて1日くらいは泊めてあげましょう。そして腹いっぱいメシを食わせてあげましょう。それが無理なら、近くに宿を取ってあげて宿泊料をくらいは出してあげてください。もし、それができないなら住所交換をするときに社交辞令で「日本に来たときはぜひ寄ってください」なんて言わないでください。彼らはそれを信じてしまいますから。
ドイツ
オーストリアからドイツに入った。当時はまだ東西ドイツに分かれていた。東西ドイツが統一されるなんて、誰ひとり思っていなかったのだが…。ベルリンを訪れた。 ヘルムトシュタット東西国境の町から東へ延びるアウトバーンが、西ドイツの飛び地だった西ベルリンへ唯一の陸路だった。アウトバーンは東ドイツ通っているので、いわば西ベルリンへ渡る架け橋だ。アウトバーンは東ドイツの管理になっているようで、東ドイツのパトカーが巡回しているし、サービスエリアにも店はあるが、どこか暗いイメージで品物も少ない。 西ベルリンは享楽的な街だという。街の周囲を敵に囲まれ、いつ東ドイツ軍がなだれこんで来るかわからないからきょうを楽しく生きればいいという意識がそうさせているとも。 ベルリンの壁の前に立つと、落書きというかスローガンというのか様々なメッセージが書かれていた。東側から西ベルリンに脱出するため、様々な方法が試みられ、そして失敗して亡くなった人も少なくない。
ドイツが統一されたときに、この壁をハンマーで壊す映像が世界中に流れた。ドイツはひとつとなった、命をかけて壁を越えようとし、それを果たせずに死んでいった人々の魂は、今救われたのだろうか。
フランス
パリの宿は、パリの南20~30kmにあるアルパジョンという小さな町のユースホステルだった。もちろんパリ市内にもいくつかあるのだが、満員で泊まれなかったのだ。
ヨーロッパでの常宿はほとんどユースホステルだったが、それは普通の宿は料金が高くて泊まれなかった。そこは一般の民家を使った小ぢんまりとしたユースだったが、居心地がよくついつい長逗留してしまったが、パリへはそこから電車で通って観光していた。
滞在して何日目かに発熱した。一日中ベッドで横になっていたが、熱は下がらなかった。もう一日ベッドで寝ていようと、ユースのマネージャーに話したところ、「きょうは団体客が入っているので、部屋を出て行ってくれ」と言われた。「えっ!」という感じで、病気なので何とか泊めてほしいと頼んだが、前々から予約が入っていたので、無理だという。僕は途方に暮れた。熱でフラフラするなか、宿を探す元気はなかった。虚ろな目で庭を眺めると、そこには古ぼけたテントがあり、夏はキャンプ場になるという。「じゃあ、庭にテントを張ってもいいか?」それなら構わないという。ということで、日本から持って来たテントを張り、シュラフにくるまって眠ることにした。
2~3日して熱も下がり、団体客も帰って行ったので、部屋に戻ることができた。気分もよくなったので、パリに観光に行こうと思い、朝食を取っているとそこで働いている女の子が、僕の顔を指さしてこう言った。「顔に何かできているわよ」何言ってるんだと思いながら、電車に乗りパリに着くと、シャンゼリゼ通りに見つけたマクドナルドに入った。そして、ハンバーガーを食べた後、トイレに行って用を足し、何気なく鏡に映った自分の顔を見たところ、なんと顔中にポツポツと赤い発疹ができていた。
「女の子の言ったのはこのことだったのか!」ユースに鏡はなかったのだ。2~3日続いた原因不明の高熱。熱が下がったあとの赤い発疹…。これって風疹か? パリのマクドナルドで、急に力が萎えてしまい、観光もそこそこに、電車でユースに帰っていった。ヨーロッパの冬って何でこんなに辛いんだろう。
イギリス フランスのブローニュから、フェリーでイギリスのフォークストンに渡った。
イギリスはヨーロッパで唯一日本と同じ車両左側通行だ。ロンドンの街中は、狭い道とところ構わず道路を横断する歩行者に閉口した。また、大きな交差点には信号のないロータリーがあり、そこをクルマの流れに乗りながら回ることになるのだが、慣れない僕はタイミングを誤って何周もそこをグルグルと回ることになってしまう。
ロンドンの外に出ると、イギリスというのは概して田舎の風景が広がり、5月という季節もあってか牧草の緑が美しかった。
湖沼地方、山岳地方を抜けてスコットランドまで北上した。スコットランドに入ると景色が一変し、途端に荒涼とした風景となる。このページのトップにある写真がそうだ。もちろんカラー写真なのだが、モノクロと見紛うような情景が眼前に広がっていた。
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